このページには、私が去る1月6日から半年にわたって琉球新報社の夕刊のコラム「南風」に執筆していた随筆を収録いたしました。1月6日から3月17日の間に掲載されたものはここをCLIKしてください。今回の担当は本年6月一杯まで、去る6月23日(月曜日)をもって、おかげさまで無事終了させていただきました。本当にありがとうございました。

(1997年6月23日)
随筆集 第2部

第1回〜第6回分はここをCLICK


消えていく曖昧さ 板井 裕 [97/3/31]

大江健三郎さんが三年前に「あいまいな日本」と題しておこなったノーベル文学賞受賞記念講演は鋭く時代を突いたものとして多くの人々の共感を呼び、今なお私たちの記憶に残っている。考えてみると、「あいまいさ」は暮らしの随所に姿を現し私たちの思考や行動に大きな影響を与えている。仕事の世界における「あいまいさ」の代表的な例といえば、いつたん就職すれば定年まで雇用が保証されるという労使に暗黙の了解のあった終身雇用制度であろう。この社会の中核的なシステムが今、がらがらと音を立てて崩れ始めている。

もともと「まあまあ」とか「ほどほど」といった感覚的な分野にある「あいまいさ」は、数値でとらえることが非常に難しいこともあってコンピュータ処理にはあまり馴染まない分野の一つとされてきた。しかし近年の目覚しい技術革新は、コンピュータを人間の思考や感覚に限りなく近づけ、「ファジー」な分野での活動範囲を急速に拡大させ始めたといえよう。

コンピュータがこうして人間サイドに近づいてきた今日、逆に暮らしの中から「あいまいさ」が少しずつ姿を消していくような気がしてならない。 人が気持ちよく暮らしていくためにはきちんとした基準やルールが必要である。だからといってその尺度が右か左か、黒か白かという二者択一的尺度であったならば、私たちの暮らしは猛烈に息苦しいものになるだろうし、人間関係だってさぞかしぎすぎすした不愉快なものになってしまうだろう。コンピュータにとってすら難しい「あいまいさ」なるものが、せわしく日々をおくる私たちに、言葉で表しがたい「ゆとり」というか「安らぎ」を与えているのではないだろうか。(OCC会長)



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真夜中の出会い 板井 裕 [97/4/14]

出会いといえば誰でも人とひとが相対する出会いを思い浮かべるが、最近の出会いには「電脳空間」での出会いもあるようだ。いわゆるインターネット上での出会いである。それにしても出会いは種類を問わず色々な意味で私たちを和ませ、心豊かにしてくれる。

このところあちらこちらの方々とのメールのやりとが多くなった。ささやかなホームページを作り、情報発信をしているせいもあるからだろう。パソコンを開くとまずメールの受信欄を開くことにしている。メールが届いていると、太字になってピコピコと点滅しているので若者ふうにいえば、チョベリグー。仕事関係よりも見知らぬ方々から頂くものが非常に多い。ビジネス文書と違って形式的な挨拶などはなく、すぐストレートに始まることが多い。素朴な質問から故郷の自慢。簡潔にしてフランクな表現。何といってもペンや紙を使う訳ではないし、ポストに投函する必要もない。世界中、市内電話料だけでOK。実に経済的。それで世界各地の人々と瞬時に意志の疎通ができるのだから最高。こんな出会いでの友達をキーフレンドというのかも知れない。

  今日、インターネットに接続しているパソコンは世界で一千万台強といわれ、しかも猛烈な勢いで増えている。パソコンの向こう側の方々とはお会いしたこともなければ暮らしぶりも分からない。でも草木も眠る丑三つ時に、キーボード相手にポツポツ(?)奮闘している相手の姿に何時しか我が身をダブらせてしまい、親しみというか敬愛の念を覚えてしまう。たかが仮想空間での出会いじゃないかといわれるかも知れないが、肩書きや年齢、性別や国籍も関係しない新時代の素敵な出会いの一つではないだろうか。(OCC会長)




恐ろしいウイルス  板井 裕 [97/4/28]

 新聞に「厚生省のホームページ、ウイルスに感染」という記事があった。日本の医療や薬などの総元締めのコンピュータがウイルスに感染したというのだからちょっとびっくり。もちろんこのウイルスは医学でいうウイルスではなくコンピュータに壊滅的打撃を与えるウイルスである。何れにしろこのところのウイルスの跳梁は目に余るものがある。どちらも発生源や感染経路は不明、ある潜伏期間を経て発病と極めて似ているようだ。

コンピュータを舞台として発生する犯罪は、大別すると二種類。一つは「ハッカー」と呼ばれ、国などの超大型コンピュータに密かに進入して情報を盗用、改ざん・破壊したりするもの。もう一つは悪質なウイルスをメールやプログラムに潜ませ、所かまわずまき散らし、感染させてデータを破壊する「ウイルス」と呼ばれるもの。ともに異常性格者たちの仕業である。この姿を見せない妖怪のような犯罪者たちは、知能指数は抜群に高く、コンピュータ技術に最高に優れている連中といわれている。  もちろんこうした犯罪に対する予防策やワクチンなどの開発も急速に進み、それなりの成果も上がっているが、犯罪者たちも負けじとばかり不正技術や新種ウイルスを次々と開発し、相も変わらず社会を混乱に陥れ、人々を不幸に突き落としてほくそ笑んでいるようだ。 

今日、文明の限りなき発達は私たちに計り知れない恩恵をもたらしているが、同時にさまざまな分野で新しいタイプの罪や悪をも創り出している。「犯罪者や異常性格者はどこの国にでもいるもんだよ」などと簡単に片づけないで、人間の優れた英知で邪悪な犯罪を未然に防ぎ、平和で幸せの少しでも多い世界にすることはできないものだろうか。  (OCC会長)



感性とは・…    板井 裕 [97/5/12]

二昔ほど前、企業が求めていた人材は、根性があって何事にも努力を惜しまない人と大体相場が決まっていたが、今日この人材像は、感性や創造性が豊かで、爽やかな明るい人とすっかり変わってしまったようだ。「感性が豊かな人」とは実際にどんな人をいうのだろうか。色々な考え方があるだろうが、私はこんな風に思っている。美しいものや素晴らしいものに対して素直に共感を覚えることのできる人、他人に対する思いやりを持てる人、他人の立場で考えることができる人、そして感動できる人だと思っている。

本田宗一郎氏は昭和二六年、新型の強力エンジンを載せたオートバイのテスト走行に成功したとき、土砂降りの中、彼の良き片腕として長年ともに働いてきた藤沢武雄氏と涙を流し、手を取り合って喜んだという。最近、日本の企業社会ではそんな話をあまり聞かなくなった。感動という言葉がいつのまにか企業の中から消えてしまったのだろうか。私たちの魂は感動を忘れてしまったのだろうか。

従来、美徳とされていた勤勉は美徳ではなくなり、がむしゃらに働くことは人々のひんしゅくをかうようになってしまった。働く人々にとって感性は何も最近必要になった資質ではなく、昔から必要とされていたし、感性の豊かな人は昔だってたくさんいたに違いない。怠惰よりは勤勉が良いのは誰だって同意するだろう。勤勉そのものではなく他を省みず自己の利益をがつがつ追求していくやり方が非難されているのだと思う。新しい時代は色々な恩恵を与えてくれるが、同時に多くの問題を投げかけている。日頃何気なく見過ごしている問題を静かに考えてみるのも時には必要なことではないだろうか。 (OCC会長)


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居場所ありますか 板井 裕 [97/5/26]
「あなたは職場で居場所がありますか」と部長や課長と呼ばれるれる人たちに聞くと、「何を馬鹿なことを」と怪訝な顔をされたり「冗談もほどほどにしろ」と怒られてしまうだろう。人は誰しも誇りや自負心をもっているから、考えてみればこうした反応は当然と言えるかもしれない。でも質問の意味は、あなたは組織の中で孤立してはいないか、上司や同僚や部下から本当に必要とされているか、"要る"という存在ではなく、ただ"居る"という存在ではないだろうか、会社を休んでも誰からも声もかからない、要するに、居ても居なくてもいい人になっていませんかと尋ねているのである。

 今、周囲では静かな革命が進行している。この革命はこれまで日本の社会を支えてきた終身雇用、年功序列という制度などを崩壊させ、この制度や慣行によって確保されてきた一部の人々の温かい居場所を奪い始めたといえよう。

本当に必要とされる人とは、人間的魅力のある人だと思う。魅力とは教養や思いやりであって、一言でいえば、その人の"生きざま"そして"哲学"ではないだろうか。魅力とは人や学校から与えられるものではなく、不断の努力によってこつこつと自分自身の中に築き上げていくものではないだろうか。肩書きや権威はあくまでも組織の中での約束事で、決してその人の価値をどうこう決めるものではない。若くても自分の哲学をきちんともった魅力的な人は多くいるし、年配の人たちだって情熱に溢れ魅力的な人は実に多い。

居場所とは自ら作り出すものであって、肩書きなどで与えられるものではない。肩書きなんかなくても居場所がいつもきちんと確保できる魅力ある人になりたいものだと思っている。(OCC会長)



塾では習えない!  板井 裕 [97/6/9]

 全国どこの町を訪れても、その町固有のものがなかなか見つからない時代になったようだ。目に映る看板や店構えも似たりよったり。道路脇に並ぶ自販機、また大売り出しの幟までほとんど同じ。街を歩く若者たちの姿も、北海道から沖縄まで特に違ったところはないように思える。時代の流れといってしまえばそれまでの話ではあるが、それにしても、いささか寂しい気がしてならない。問題は押し寄せつつあるこうした新しい時代の波が、私たちが祖先から営々と継承し続けてきた文化に大きな影響を与え、人の心まですっかり変えてしまうことであろう。

 いつの時代においても大切なことは、私たちが時代の流れと調和を図りながら、人間として生きることの「基本」をきちんと守りながら生きていくことではないだろうか。基本というものは教えたから、また塾に通ったからといって身につくものではない。

 百年前の明治の小学校で「道路に紙屑を捨ててはいけない」と教えたのに、一世紀たった今日、平気で走る車の窓からたばこの吸い殻や紙屑をポイと捨てる人が多いことからしても明らかであろう。   公徳心という言葉は消えたのだろうか。人格や教養を教えるとはいわない。養う、育てるという。人間としての基本は与えられるものではなく、自発的に意識的に努力して身につけるものだと思う。

   今、生涯学習の必要性が叫ばれ、文部省も県もその振興に非常に力を入れているが、人間として生きていく上での基本事項についての啓蒙活動も、それ以上に必要であり、強力且つ具体的に推進すべきではないかと思う。平凡にして当たり前のことの中に、他府県との明確な差別化が図れるのではないだろうか。   (OCC会長)



心に花を咲かせよう 板井 裕 [97/6/23]

 うっとしい梅雨もどうやら峠を越したようだ。本土と比べて季節感の乏しい南国沖縄にもいよいよ本格的な夏の到来である。

 四季のうちで「春」が一番好きだという人が多いそうである。自然は一年を通じて多くの恵みを私たちに与えてくれる。中でも春夏秋冬、美しく咲く色とりどりの花ほど私たちの心を和ませ、豊かにしてくれるものはない。多くの人々が特に春を愛するのは、きっと寒い国々では、冷たい厳しい冬を辛抱すると、やがて春が訪れ、若々しい燃えるような緑が芽を吹き美しい花々が開くからではないだろうか。秋になると、慎ましやかに小さな可憐な花を咲かせる白菊にしろ、目をみはるような美しい大輪の菊は、私たちに文化やスポーツの秋の訪れを告げ、これまた多くの人々に愛されている。

技術革新の波はこれまで常識や原理とされてきた多くの事柄を変えてしまった。そして季節を問わず花を咲かせ、色や花の大きさまで変えることができる時代をもたらした。冷夏ともなれば値段が高騰する野菜が多いが、工場産の葉野菜の価格はあまり変わらない。栽培は電照や温度調節まですべて完全コンピュータ制御。レタス等は露地栽培の半分の三十日で育つという。水耕栽培だから泥なし、虫なし、水洗い不要。種蒔きから袋詰めまですべて全自動。難点は設備に多額の資金が必要ということ。後継者不足問題を解消かも。 大切なことは科学技術の発達と人間が人間らしく生きていくことにおいて常に調和を図ることであろう。時流は「沖縄」。それにしても訪れる二一世紀が沖縄に住む私たちの心に美しい花を咲かせてくれる時代であって欲しいものだと思う。これまで本当にありがとうございました。(OCC会長)





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